西原が床に額をこすりつけた。
「すまなかった! 本当にすまなかった! 今までの分は必ず返す。だから許してくれ」
木崎は、もう一度、西原の頭を床に踏みつけると、西原の頭から足をおろした。
「鷲尾も、この年末時期に本部長の更迭なんて、目立つ人事はやらんだろ。おまえが更迭されるのは一か月くらい先の話だ。おまえが本当に約束を守るかどうか、しばらく様子を見てやってもいい」
西原が顔を上げて木崎を見た。紅潮した顔は汗を吹き出し、血走った目が震えている。
「約束は守る! 必ず、守る!」
木崎は西原の目をにらみつけると、体をかがめて顔を近づけていった。
「じゃあ、まず、おれの頼みを聞いてもらおうか」
「何をすればいいんだ! 何でもする! 言ってくれ!」
「注射を一本打たせてくれ」
「注射?」
「ああ、注射だ。二本になるかもしれんがな」
西原が眉間にしわを寄せて怪訝そうな顔をした。
「なんの注射なんだ」
「安西の暴走を食い止めるための注射だ。暴走を止めるための抑制因子を三つにまで絞り込めたんだがな。ここから絞るのにデータが欲しいんだよ」
「おれで実験しようというのか」
「他に方法がないんでな。安西の体は特殊な条件を乗り切った貴重な実験体だ。あれで賭けはやりたくないんだよ」
「その注射を打つと何が起きるんだ」
木崎は右手で長い白髪を掻き上げた。
「はずれの場合は何が起きるかわからん。まあ、毒性があるもんじゃないから、その場で死ぬことはないだろうがな」
西原が生唾を飲み込む音が聞こえた。
「あたりの場合はどうなるんだ」
「三十倍の速度で老化が始まる。おまえは一年ほどで老衰死だ」
木崎を見つめる西原の目が泳いでいた。
14.
「後藤さん、来なかったな」
寺井が、ぼそっとつぶやいた。沢田は店のカウンターの壁に掛けてある丸い時計に目をやった。午後九時を回っていた。黒木冴子がグラスに残っていた赤ワインをすっと飲み干した。
「さて、そろそろ、お開きね。あしたも仕事だ」
長谷川が左腕の腕時計を見た。
「おう、もうこんな時間か。隊長、沢田に飲み食い以外のリアルさは、まだ教えてねぇの
そうね。まだいいかもしれないわね
「家庭持ちの頭をスカッとぶっ飛ばしてやれ」
「そうしましょうか。じゃ、とりあえず、この場はこれでお開きよ。みんな、気を付けて帰るように。沢田は、わたしと一緒に来て」
女上司とふたり、飲み食い以外のリアルさ、沢田の中で何度消そうとしても、煩悩が浮かび上がった。
店を出ると、長谷川と寺井の姿が薄くなって消えていった。
「じゃ、行くわよ」
黒木冴子が右腕を振ると、店の前の路上に黒い大型バイクが現れた。黒木冴子の服装も黒の皮でできたジャンパーと皮パンツに代わっている。
「ヘルメットはいらないわ。乗って」
そういうと、バイクにまたがった。
後部座席に乗ると、気は引けたが、黒木冴子の腰に手を回してつかまった。低いモーター音を轟かせてバイクが発進した。黒木冴子から流れる空気に、ほのかに甘い香水の香りがした。
車の流れに乗ってバイクが走る。頬にあたる風圧。加速とカーブのたびに感じる重力感。なにもかもがリアルに再現されていた。車の間を縫って追い抜いていく。爽快だった。
二十分ほど走ったところで、海岸沿いの埋め立て地に出た。潮の香りがする。遠くに灯台の赤い灯りが見えた。
黒木冴子がコンクリートの堤防の上でバイクを止めた。あたりに人影はない。
「ここよ」
バイクのキーを回すとモーターがうなり声を止めた。バイクを降りた黒木冴子が右手を振った。堤防の上に黒い石でできたベンチが現れた。
「まだ二十分くらいならいいでしょ。座らない?」
黒木冴子が腰をおろした隣に座った。海を見つめる黒木冴子の横顔。潮風に黒髪がさらさらと流されている。
「どうだったかしら、今夜は」
「こうまで感覚が再現されたのには驚きました」
「それは、なぜ?」
何を聞かれているのか理解できなかった。奇妙な響きを持った質問。返答に戸惑った。
「なぜって、普通驚くじゃないですか」
黒木冴子がこっちを向いた。吸い込まれそうな黒い大きな瞳。ピンクのルージュを引いた唇が動く。
「わたしが聞いてるのは、おまえが驚いた理由よ。感覚自体は、普段のリアルな世界で感じているものだから、別に驚くには値しない。すでに存在しているものなんだから。もっと根本的な理由があるから、おまえは驚いた」
言っていることは理解できたが、何を答えればいいのか見当がつかなかった。
「理由……、ですか」