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おまえが驚いたのは、実世界でしか体験できないことがある、と信じていたことが壊れたせいよ

問われたことの答えが少し見えたような気がした。だが、答えは毛布にでもくるまれているかのように、まだはっきりした形が見えない。

「よくわかりませんね。別に壊れたとは思ってませんけど」

「それは、おまえがまだ気づいてないからよ。おまえも夢を見ることがあるだろう。夢の中では、なに不自由なく、現実と同じ感覚を感じているはずだ。それでなければ、すぐ夢だとわかって、覚めてしまう」

 ブラックホールにでも吸い込まれるかのように、黒木冴子の話に引き込まれていった。

「永遠に続いてくれればよかったって思う夢はない? わたしはあるわ。子供のころの夢、友達との夢、恋人との夢。なんの不安もない暖かな幸せ。ただ笑顔が続く時間」

 胸に痛みを感じた。父と母に守られ、日が落ちて空に浮かぶ雲が真っ赤に染まるまでわき目も振らずに遊んでいた子供のころ。学生という身分に守られ、友人との遊興に身を投じていた日々。恋人との語らい。どれも百パーセントの自分を投じていた。今の沢田。一つのことに百パーセントを投じられない現実があった。

「そりゃ、いい夢を見ることはあります。目が覚めなきゃよかったのにと思う夢もあるし。でも夢は必ず覚めてしまいます。現実とは違う」

「そうかしら。本当は、おまえはあの戦闘で未帰還者になっているとしたら、どう? 今、この時間を夢ではないと否定できるかしら?」

「えっ」

 ベッドに横たわる智美の顔が浮かんだ。夢を見ているような穏やかな顔。

「未帰還となった安西たちは、もう目覚めることはない。でも、生命維持装置につながれたまま、ずっと夢を見続けているとしたら、どうかしら。夢の中にいる安西たちが、自分は仮想空間で死んだなんで気づくかしら。おまえは、今、自分が感じていることが現実だという確かな証拠を何か持っているか?」 

 腹がむかついた。この空間が現実ではないことはわかっている。冷たいものが背中を走った。

「僕は死んだんですか? あの戦闘で、やっぱり僕は死んだんですか? 隊長は、僕に自分が死んだことを気づかせようとしてるんですか?」

 黒木冴子が柔らかな笑みを浮かべた。

「デリケートなのね。安心しろ。おまえは死んだりしていない。ちゃんと現実の世界に生還して、また、わたしとこのバーチャルな空間に来ただけだ。だが、少しは気づいたんじゃないのか。現実なんてうつろなものだということを」

 胸のざわつきは収まらない。今聞いている黒木冴子の言葉、いや目の前にいる黒木冴子の存在自体、夢ではないという保証はどこにもない。無性に家に帰りたくなった。留美と沙紀だけが、沢田にとって唯一現実を実感させてくれる存在に思えた。

「おまえは、なんで現実の世界に固執しているのかしら」

「固執もなにも、僕には妻と子供がいるんです。現実の世界に実生活がある。妻を守って、子供を育てなきゃならないんです。単に感覚器を満足させるだけじゃ、幸せなんかじゃない」

はるか年下の黒木冴子を相手に、感情を抑えるのが精いっぱいだった。

「それって、おかしくない? ずっと単身赴任してる人だっているのよ。奥さんとも、子供とも会えない生活。外国に単身赴任してる人なんか、時差のせいで通信でのつながりも取れない人が多い。奥さんと、子供がいることなんて、おまえが現実の世界に帰らなきゃいけない理由にはならないわ」

 自分の存在意義を否定されたような気がした。胃に違和感が起こり、気分が悪くなってきた。

「わかってきたんじゃない? おまえが現実に固執する本当の理由が」

 わからない。答えはわからないが、確実に追い詰められているのを感じた。心臓の鼓動が速くなった。恐怖心がこみ上げてくる。

「それは、お金よ」

 つかんでいた命綱がブツリと切れた気がした。違う、金ではない。気持ちは否定するが、反論できる武器が見当たらない。

「違う。金じゃない。金だけで、人は幸せにはなれない」

 うわべだけの反論。説明になっていないことは充分わかっていた。

「そうかしら。おまえの口座に莫大なお金があったとしたら、奥さんは充分に子供を育てられて、奥さんも、お子さんも、毎日幸せに過ごせるんじゃない?」

 否定ができなかった。いや、黒木冴子が言うことが当たっている。金で妻と子供の幸せを担保できなければ、単身赴任者の幸せを否定することになる。沢田がいなくても、金さえあれば家庭の幸せは維持できる。気づきたくない現実を黒木冴子にあかされた。

「奥さんや、お子さんのことだけじゃないわ。現実のしがらみは、すべてお金が解決してくれる。充分なお金があれば、現実にこだわる理由なんかないのよ。今のおまえは見続けたい夢を、夢として切り捨てているのも同じ。体を起こして、仕事に出て、お金を稼がなきゃいけないから、夢を見るために眠り続けるわけにはいかないだけ。お金があれば、ずっと夢の世界にいても大きな問題にはならない」

「いったい、何が言いたいんですか!」

 いつの間にかいらだちが頂点に達し、戸惑いが怒りに変わっていた。

「お金の問題を除けば、今、ここで見ているもの、感じているものを現実として、なにか不都合があるのかしら。おまえがさっき、未帰還者になってるという自分を否定できなくて不安に思ったように、もともと現実の自分なんて存在は、不確かなものだわ。おまえが今日驚いた理由は、現実との境が無くなったことよ」

 そうかもしれない。こっちの世界でも不都合が無くなったことに対して驚いたのかもしれない。よくわからなくなっていた。だが、確かなことはあった。金だ。金があれば、家族は幸せに暮らすことができる。子供のころから聞かされてきたこと。金で人は幸せにはなれない。嘘だ。

「現実なんて、うつろなものよ。夢の方を現実として生きたとしても、それで幸せなら何の不都合もないわ」

 黒木冴子が海に顔を向け、遠い目をした。堤防に打ち寄せる波の音だけが聞こえた。