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硬直していた気持ちが少しだけ楽になった

三メートルほどまで近づいたところで、ようやくナンバープレートが見えた。頭の中に刻み込む。目的は達成した。あとは、この場を通り過ぎるだけだ。奥歯を噛みしめてセダンの横を通り過ぎた。なにも動きがないことを祈りながら、セダンの方へ耳と背中の神経を集中させた。

 目の前の十字路まであと五メートルほど。右へ曲がって建物の影に入ればゴールだ。走り出したい気持ちを押さえながら、一歩、一歩、足を進めた。時間の流れが異様に遅く感じられた。

 十字路を右へ曲がった。あと数歩だ。建物の陰でセダンが見えなくなった。ゴール。心臓が、びっしょりと汗をかいているのを感じた。胸から携帯端末を引き抜いた。防衛省のサーバーに接続する。画面に並ぶボタンから照会を選んだ。セダンのナンバーを打ち込み実行ボタンを押した。『該当なし』。心臓が大きく脈をうった。打ち込んだナンバーを確認した。間違えはない。偽造ナンバー。疑いが確信に変わった。あのセダンは、沢田を監視している。なにか得体の知れないものが、沢田の見えないところでうごめいている。携帯端末を胸ポケットに戻すと、そのままマンションに向かって歩いた。

 

 夜空に向かって何本もの高層マンションがひしめき合っている。四角い巨人が肩を寄せ合って沢田を見おろしているようだった。沢田の部屋があるマンションに入ると、誰もいない冷え冷えとしたエレベータホールに沢田の靴音がこだました。四基のエレベータが二基ずつ向かい合わせで並んでいる。ボタンを押してドアが開くと乗り込んだ。酒臭い。酔っ払いが乗っていったにおいが充満している。いら立ちと不快感にじっと耐えた。

 

「ただいま」

「お帰りなさい」

 家の奥から留美の声がした。おそらくキッチンにいる。玄関で靴を脱ぐと、ダイニングのドアを開けた。たっぷりと水分を含んだ暖かい空気がまとわりつくように沢田を包んだ。シチューの香りがする。尖っていた気持ちが和らいだ。

「すぐ食べられるわよ、着替えてきて」

 ドアが閉じている奥の部屋では沙紀が眠っているはずだ。これが家庭だ。幸せの確かな手ごたえを感じた。プライバシーのない監視の世界。そう言い放った黒木冴子は家庭の幸せを理解していない。正常な世界に戻ってきたように思えた。

 

 解いたネクタイをクローゼットにかけていると、留美が入ってきた。

「沙紀ちゃんの受験の話なんだけど」

 穏やかさを求めていた気持ちがいきなり折られた。五歳になる娘の沙紀。留美の希望は沙紀を小学校から留美と同じ学校に入れてしまうことだ。留美の出身校、超一流大学の付属校。留美は四歳のころから、塾と家庭教師を付けられて、小学校を受験し、そのまま大学まで進学した。お嬢様育ちの留美にとっては、ごく当たり前のことだが、沢田にとっては別世界の話だった。留美の言いたいこと。わかっている。金の話だ。